今日は父の誕生日です。84歳になりました。生きていれば、ですけれども。奈良県の明日香村出身。県立高田高校を卒業し、就職した保険会社で母と出会いました。おかげで僕が生まれました。自分をこの世に産んでくれただけで、十分に感謝の対象になります。父の体内から母の胎内へと一緒に移ったライバルたちを蹴散らして、僕が生まれたのです。この命は大切にしなければなりません。
ご存じのとおり、会社を畳んだと言えば上品ですが、要するに放蕩生活を続けた挙句、会社を潰し、約2億円の借金を作りました。そのうちの6000万円を僕がかぶることになりました。『人生の授業』(あさ出版刊)に書いたとおりです。ほとんどがけっこうな街金からの借金でした。銀行とか公金とかの借金であれば、あんな目には遭わずに済んだだろうなと、今でも思います。
でも、そのおかげでほとんどの人が、特に教員をやっているようなまともな人が、経験しないようなことを経験することができたのです。経験値と知識とは教養の両輪です。その点で、父には、これは皮肉ではなく、感謝しています。「死んでくるからお母さんを頼む」と言って電話を切った父。でも死にきれずに帰ってきた父。そして僕と一緒に街金の人たちに土下座をした父。
今日は一日中、いろんな父の姿を思い出していました。
そういえば、僕が大学に行きたいと言ったとき、「大学に行って何をするねん。お前は頭が悪いから、まだ勉強せんとあかんのか」と父が酔っ払って赤鬼みたいな顔をして返事をしたのを思い出します。作家か教員になりたいんやと言うと、そんな頭を使うような仕事、お前には無理ちゃうかと言ってはいましたが、実際にそれから何年か経って僕が教員になったと聞いたとき、この家から先生様が出るとはな!と言いながら、嬉しそうに酒を飲んでいました。母は仏壇に手を合わせ、涙を流していました。
いろんなことがあった父ですが、今となっては恨みつらみは一切なく、逆にもっといろんなことを話しておくべきだったなと後悔しています。あまり積極的に知らない人たちと話すのを好まない父でしたが、57歳で半身不随になったあとは驚くほどの社交性を見せ、詩吟やパソコンを習っては僕を驚かせました。詩吟なんかできるんかと聞くと、これがけっこう面白いんやと、口がうまく開かないなりに、たどたどしく吟じてくれたのが昨日のことのようです。
あと何十年かすれば、父や母のことを覚えている人はこの世からいなくなります。僕が生きている間はせめて、誕生日を祝ってやろうと思っています。ハッピーバースデー!
木村達哉拝
追記、
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