子どもの頃はプロ野球選手、特に中日ドラゴンズのキャッチャーになりたかったんですよ。当時は木俣というキャッチャーがレギュラーでしてね。彼の後釜は僕かなぁと思っていました。まぁね、入った高校に野球部がなかった時点でその夢はチーンなんですけど。調べてから入れよ!と母に大笑いされましたわ。わはは!僕の人生なんてそんなもんです。
彼のあとに中尾や中村というキャッチャーがレギュラーになったときも、テレビを見ながら「僕なら今のところはストレートで押す」なんて評論家よろしく、母に解説していたものです。もっとも161センチしかないキャッチャーなんて、ピッチャーが投げにくいに決まっているんですけどね。自分でもそれはわかっていて、野球選手は無理だろうけど、野球選手以上に有名な作家になってやるさと思っていたものです。
結局のところ、作家になるという夢(当時はそんな小さい目標でさえも大きい夢だと思い込んでいました)も慶応義塾大学の仏文科に不合格になった瞬間にあきらめ、教員になりました。今から思えば、作家なんてどの大学に行ってもなれますよね。いや、なにしろ遠藤先生が大好きだったのです。遠藤周作先生と同じ、慶応の仏文に行き、フランスに留学し、結核になり、入院中に書いた作品で芥川賞を獲得してやるぞなんて、真剣に思ったいたのですから。馬鹿でしょ。でも、当時は真剣に思っていました。
その「夢」が50歳代になってむくむくと頭をもたげてくるとは、40歳代の頃には思いませんでした。おそらく定年まで灘校で英語の教員をしながら、子どもたちにえらそうに人生を説くんだろうなぁと思っていましたからね。なにがきっかけになるかわかりませんね。あることがきっかけになり、結局はこういうことになりました。どうせ作家になるなら、大好きな絵本と小説の両方の作家になってやるさと思い、まずは絵に向かっております。
今日は淡路島の一宮中学校に行き、子どもたちにそういう話をしていました。作家になりたかったから日本語も英語も勉強していたように思いますし、逆に、作家になりたかったから数学や理科なんてどうでもいいやと思っていました。誰よりも日本語と英語ができるようになれば、おそらく作家になるのはそれほど難しくないだろうと考えていたのですね。努力には常に理由が伴います。機械的に学校に通っていても、理由のない勉強はなかなか続きません。勉強の理由を自分で探すことだという話を、淡路島でしてまいりました。
木村達哉拝