ようやく悪しき教員免許更新制度が廃止になるようですね。僕が免許を取得したときには、これは時限免許ですよとは言われなかったので、時の首相の思い付きで時限にされるのは迷惑だと思っていました。講習を受けずに済む抜け道のおかげで、僕はただの一度も講習を受けていません。もちろん免許は維持しております。
なかには「多少は役に立ちましたよ」という先生もほんのわずかですがいらっしゃいました。が、その先生の指導力が講習を通じて上がったという話は皆無。多少の教養が身についたという程度のものであれば、おそらくたくさんの本を読み、沈思黙考していたほうがよほど教養になることでしょう。
そもそも官僚の大きな仕事は「ミスをしないこと」です。したがって、大きい改革や変化を求める政党は疎んじられます。おそらく日本維新の会などは官僚にとって疎ましい政党ではないかと推察しています。自民党政権がある意味では官僚にとって一番やりやすい政党なのでしょうね。教育に関しては、安倍さんが多少はやる気になってはおられましたが、「教育再生」という言葉を使った時点で、彼が現在の教員に不信感を持っていることがはっきりわかりました。再生とは死んだものに対して使う言葉です。
教育再生会議のメンバーに、教育の素人や学校現場をまったく知らない人ばかりを選び、そのなかで決まったことが堂々と現場に導入されました。特に、受験に関しては塾や予備校に行きましょうと言った政治家を見るにつけ、彼らにとってそもそも学校というところがどういう位置づけなのかが見て取れました。そして経済最優先という御旗のもと、学校ではなく塾や予備校の経営を助けるような政策がたくさん取り入れられました。塾や予備校が悪いと言っているわけではありません。健全な塾・予備校の経営者は「私たちは学校を補完することが仕事」とおっしゃいますし、僕もそう思います。
できることならば、学校で教育を完結させたいところです。これについては、おそらくほとんどの方が理解を示されるのではないでしょうか。
ただ、学校というところは甲子園球場の観客と同様に、野次が飛びやすいのです。一家言持った人たちの意見に左右されがちです。そんなのは教育じゃない!こういうふうにしたほうが成績が上がる!無駄な指導は止めろ!校則などは無駄だ!外野ならぬ客席からの野次を監督が聞き入れることはありません。しかし、羊のごとくおとなしい、そして喧嘩をしたこともない先生方はうろうろおろおろわたわたあたふたします。特に保護者からの声には敏感です。背筋を伸ばして凛と構え、素人の声に動じなければいいのに、です。
ですので、教員が頼りなく見えるのも致し方ないようにも思えます。また、僕個人は教員が特段多忙であるとは思っていません。むしろノルマのない仕事ですので、企業の人たちに比べると気楽なものです。ただ、すべてが仕事のようなものです。読書もそう、美術館に行くのもそう。旅をするのもそう。ところが現在は、学校での仕事が多すぎるので、まともに力を付けることが難しいのです。すべての職種の中でもっとも本を読まないのが教員だと言われているのは極めて残念です。
そのうえ授業が上手くない先生であっても、生徒の力を伸ばせない先生であっても、まともに人前で話せない先生であっても、書類を整理するのが得意な人は生きていけます。むしろ評価されたりもします。事務仕事が好きじゃない人は生きづらいのが学校です。現場では金八先生などは生きていけないでしょう。現在の学校は変な場所です。指導力がすべてであればいいのですが。
なにかにつけて、素人(文科省官僚や政治家)が決定した政策に翻弄されやすい学校ですが、校長をはじめとする管理職が毅然とした姿勢で学校運営をすることが望まれます。そして教員は自分の指導力を上げることに力を注ぎ、しっかりと書物を繙き、話術を勉強し、生徒たちに対峙すべきです。そして生徒たちは、そういったプロの指導下において、自分の力を磨き、自己実現を図ろうとすべきです。最後に保護者は、そういった学校や生徒たちを何も言わずに見守るべきです。現在は素人(文科省官僚や政治家)が力を持ちすぎているように思います。資源のない日本では、人材を正しく育てなければ未来がないということを、教育に携わる全員が肝に銘じるべきです。
木村達哉拝