いつからか「打たれ弱い子」が日本中に発生しているようで、講演などでいろんな学校に行くと先生方から悩みを打ち明けられる。気持ちが弱い子が多くなった、強がっていても実はメンタルが弱い、親元から離れたくない子が増えた・・・「褒めて育てる」という危険な標語がひと頃流行したが、まともな教育関係者たちはそれに警鐘を鳴らし続けていた。褒めて育てた結果としての現状であろう。
Woe to the house where there is no chiding. ということわざがある。日本語に直すと「子どもを叱らない家庭は悲劇だ」となる。なぜこのことわざが存在するのかを哲学的に考えるまでもなく、子どもを一切叱らない家庭で生まれた子どもが初めて叱られるのは大人になってから、それも赤の他人からであることを考えれば、誰にでもその悲惨な結末は理解できるのではないか。
灘校勤務時代、彼らからは鬼だの鬼畜だのと言われたこともあった。つまり、彼らを叱り飛ばしていた。蝶よ花よと育てられてきた教え子たちが早い時期に挫折感を味わえばいいなと心から願っていた。浪人した教え子には、人生を長い目で見ると浪人するほうがいいのだと声をかけた。心からそう思っていた。
学校は準備をする場所である。極めて閉ざされた場所ではあるが、それでもやはり社会に出たときに、過度に傷つかない、過度にとんがらない、過度に誇らないよう、それぞれが準備をする場所なのである。言うまでもなく、この「社会」とは人によって異なる。人によっては大学であろうし、人によっては職場であろう。
「パワハラ」という言葉でさえも敏感に使われている社会においても、そして頭ごなしに怒鳴られる経験は減ったとしても、完璧なる自尊心を持って生きていくことは不可能である。先輩や上司、あるいはクライアントから叱責され、自分の未熟さを呪い、それでも立ち上がりながら生きていかねばならない。そして誰かの役に立てる人材となるよう成長していかねばならない。
学校はその練習をする場所である。学びというのはつまり、そういうことも含めての学びなのである。考える練習をしたり、覚える練習をしたり、人前で話す練習をしたり、つまらない話を聞く練習をしたり、あるいは心から叱られる練習をしたりする場所なのである。
7日は不登校の生徒たちや保護者を対象に講演をすることになっている(こちら)。明後日だというのにまだ資料は完成しない。過敏になっている子どもたちに使うべき言葉はいつもより敏感に選ばねばならないだろう。敏感にはなるにしても、だからといって過敏になっていては話せないし、彼らの成長にはつながらないだろう。自分が高校生のとき70日欠席した経験を踏まえ、強い人間になってくれることを祈願しながら、心を込めて話そうと思う。
木村達哉拝
追記
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