共通テストが終わり、受験生も一息ついていることだろう。それぞれのテストについては、いろんな学校の先生方が感想文をSNSなどに撒き散らしておられるが、概ね例年どおりの「大したことなかった」と「いい試験だった」が組んずほずれつしたものになっている。
昨年まではそれぞれの設問を分析しては審査員の真似事をしていた私だが、そもそもこの試験が何のために行われているのかを考えてみるといろんなことが見えてくる。建前としては国公立大学受験生共通の一次試験ということなので、得点を「持ち点」として、各大学の入試に向かうということなのだろう。
が、現実はそうではない。
ベネッセ・コーポレーション等の分析を待つまでもなく、共通テストで高得点を獲得すればほとんどの国公立大学の合格通知を受け取れるのが上記の「現実」である。つまり、本来なら持ち点を獲得するための第一次ゲーム的位置づけが、現在では実質的な入試となっているのである。二次試験での逆転はほとんど起こっていない。ひとつには少子化が大きい原因である。
だとすれば、かなり簡単な国公立大学入試だと感じずにはいられない。ただ、学生にかなりの税金を投入する国公立大学の入試がこれでいいのかと憤懣やるかたない向きもあるだろうが、一次試験をいたずらに難化させても意味がない。昨年度の共通テストの数学よろしく、多くの受験生が解けないからである。であれば、質的な変容を加えるしかない。それが「思考力」というどうにもつかみどころのないやつだ。
さらに言うなれば、短期的対策が効かない問題にすることになる。問題文(リード文)を長くすれば、設問をさほど難しくしなくても、しっかりと文章を読む力が欠けている受験生は苦労するはずである。英語のみならず他教科も、リード文がどんどん長くなっている。それは「対策するならしてみろ」という大学入試センターの強いメッセージではないかと穿ってみる。
短期間で「長い文章を正確に速く読む」という力を涵養するのは不可能だ。しかし、比較的幼い頃から書物に親しんでいる受験生であれば苦もない。たとえば、灘中学校のような超進学校を受験するような子どもは早い時期から読書習慣を身につけているので、リード文が長くなればなるほど有利であろう。そうでない生徒が塾に行って対策したからといってどうなるものでもない。
その点で言えば、いい試験ではないかと思う。英語リスニングで複数の人間による会話が出題されているのは、東大の3人が限界ではないかという気がするが、それ以外は上記の理由で(そりゃ書き出したらいくらでも悪い点は書けるけれども)勉強している者とそうでない者とに差をつけるという意味では良い試験ではないか。来年以降、読む量がさらに長く、もっと長く、もひとつ長く、なっていくことを強く願う。
木村達哉拝