「親ガチャ」という言葉が大嫌いだ。
努力しない子どもの戯言だと思っている。確かに親のDVで心を傷つけられてしまった子どもも多数いるだろう。それは気の毒だとは思うし援助をしなければならないが、それでもやはりいつかは自分の足で歩かねばならない。毎日のように親から平手打ちをされながら、そして監督からは金属バットでケツを殴られながら、子ども時代を過ごした私はそう思う。
人生はただの一回だ。どんな親に生まれようとも、どんな家庭に生まれようとも、それは単に生まれたときの状態に過ぎない。そりゃ、生まれた瞬間に大金持ちという麻生太郎のような人もいるのだろうが、そんなのはひと握りで、ほとんどの人々が自分の力だけで人生を切り拓いていかねばならない。
多少恵まれない家庭であっても、親を言い訳にして自分の人生を作っていく努力を惜しむと、家庭が原因ではなく当人の怠惰が原因で、恵まれない状態からは抜け出せない。勉強に勉強を重ねてリテラシーを持ち、それでも家庭にしがみつくのか、家庭から離れたほうが得策だと考えるのかは、自分で判断すればいいのである。私が上記の政治家なら家は出ないが、平均的な家庭であれば家を出るだろう。偏差値50で人生を終えたくないという意識があるからだ。
私が子どもの頃は、周囲は「恵まれない子ども」だらけであった。帰宅すると親が家にいる子どもはほとんどいなかった。中にはそういう友人もいたが、その場合は親が無職で、朝から酒ばかり飲んでいる父親にたばこと酒を買ってこいと言われる子どもも多かった。私の場合は、毎日の晩飯が23時スタートだったが、母が23時に帰ってくるまでにコメを炊いておかねばならなかったし、朝食の洗い物をしておかねばならなかった。文句を言うとぶん殴られた。時代と言われればそうかもしれないが、そういう家庭であった。だからこそファイティングスピリットを養えた。みんなが家を出たがっていた。そして都会に憧れた。
一方、最近は「大学に行っても家を出たくない」という子どもが多い。日本中の学校をまわっているが、灘校生のように「大学は東京に行ってひとりで生きる」という子どもはレアだと感じる(し、だからこそ東大に合格するのは決まった高校の子どもたちだけなのだが)。家から出たくないということは、幸せな家庭の子どもが大多数なのだろう。経済的に豊かで笑顔の絶えない家庭なのだろう。
しかし、その子どももいつかは家を出る。そして、誰かの親になる。長いこと親元にいた親は、きっと似たような家庭を作ろうとするだろう。そうして親元を長いこと離れない、したがって経験値の薄い子どもたちが増産されていく。
金儲けしてやるぜ!とぎらぎらと目を光らせる大人が絶滅危惧種となり、したがって子どもたちも欲を持たなくなった。それがどういう日本を作るのかはわからないし、それも時代なのかもしれない。ただ、いっぱしの人間になろうと思うなら、簡単に今の自分を慰め、簡単に自分を頑張っているからいいやとか、楽しいんだからいいじゃないかと思える人間であってはならない。
恵まれない子どもは「親ガチャ」と自分を諦め、恵まれている大多数はおとなしいヒツジであろうとするなら、この日本はどうなるのだろう。親よりも大きくなることがなによりの親孝行なのだと信じて疑わない私は、講演先で「親元から大学に通いたい」という言葉を若い人たちから聞かされるたびに暗澹たる気持ちになるのである。
木村達哉拝
追記
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