子どもの頃から本を読むのが好きでと書くと、なんだかよく出来たお子さんだったのですねなんて言われることもあるが、まったくそんなことはない。私たちの時代は休憩時間に文庫本を開いている子どもたちが教室のここかしこにいたのだ。
図書室は公立の学校だったから大した本が揃っているわけではなかったが、それでも土曜日にもなれば(当時は土曜日にもちゃあんと授業はあった)校舎一階の暗い図書室に入って数冊を借りる児童が少なくはなかった。また、教室の黒板横に置かれている図書箱(かっこよく言えば「学級文庫」)が充実していて、家で読み終わった本を持ってきては箱に放り込む児童がいた。
今風に言えば「本を普通に読んでいた」のである。逆の言い方をすれば、読まないのが「普通じゃない=異常」だったのだ。それに本を読まないとえらくなれないという信念が浸透していたので、それなりの成績の生徒たちはこぞって本を読んでいた。私の成績は下下下の下太郎だったけれども、やはりえらくなりたくて、ヒマだなぁと思ったら本を開いた。土台にあったのは、えらくなりたいという気持ち。えらくなったらどうなるのか等は後から考えるにしても、えらくならないとえらいことになるぞという恐怖心はあったように思う。
それを考えると、現在の教育は価値観があまりに多様になって、子どもも親も教師もみな迷える子羊に見える。我々の時代のような「金持ちになりたければえらくなる」→「えらくなりたければ本を読む」という短絡的な矢印が今は存在していない。みんなが貧しい時代だったから、「金持ちになりたい」は子どもも大人も共通の願望だった。したがって、多くが「えらくなるために」勉強した。
成功者を目指す人たちが、成功するにはどうすればいいのかが書かれているハウツー本を飛ばし読む。こんな本を読み始めたとSNSにアップする。それに対する「いいね」を期待する。「コメント」を期待する。これこれこういう勉強を始めたとSNSにアップし、またぞろ「いいね」に期待する。
SNS中心の勉強ではなく、力をつけるための勉強、「いいね」をもらうための主張や対策ではなく、十年後二十年後に様々な知識と論理的に考える力を有しているための勉強、人生を幸せに生きるための勉強を、地に足をつけて行うことが本当に求められているように思う。
木村達哉
追記
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