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さとふる

2023.05.12(金) 05:00

ありがたいことに佐賀県からお米が、鹿児島県から牛肉が届いた。どなたからのお心遣いだろうと思って送り状を見たら「さとふる」だった。こういうことは子どもの頃からある。しっかりしたお子さんですねと言われてこちらもそのつもりで性格を形成してきたが、そそっかしさは人並み以上である。

奈良県の私立高校で働いていたときのこと。ある保護者からお歳暮をいただいた。お礼をと生徒名簿を開き、お宅に電話をかけた。このたびはお気遣いいただきありがとうございます!これはまた美味しそうな!本当に!とできるだけ快活に、いかにも嬉しそうな声を出して申し上げたのだが、名簿の見間違いで、該当する一つ下の生徒の自宅に電話をかけていた。

私の間違いに先方もどう応えるべきか計りかねたのだろうが、こちらはまさか相手を間違えているとはつゆも思わず、反応の不自然さには気づかなかったが、数日経ってその方からもお心遣いが届くことになった。お礼の電話のつもりが催促になってしまい、赤っ恥をかいた。その保護者からも届いて初めて電話する相手を間違えたことに気づいたのだが、さすがに今度は一つ上の生徒宅に電話をする勇気もなく、双方にお礼状を出すにとどめた。

言葉の使い方については敏感なはずだが、それにしたって間違いに気づかないまま大人になってしまったものもある。さすがに最近は恥ずかしいミスをしなくなったが、高校の現代国語の時間に大恥をかいたことがある。「手話」である。

授業中に生徒が指名され、代表して教科書を読むというのはおそらく今も昔も変わらない風景なのだろうけれども、私はアレを得意にしていた。いつ当てられてもいいように、国語の教科書を日常的に音読していた。『汚れつちまつた悲しみに』であれ『羅生門』であれ、背筋をピンと伸ばして立ち、感情をこめて抑揚を考えながら、朗読家さながら読んだものである。高2時、極めて厳しい国語の先生が「木村を見習え」と全員に告げたとき、私は人生絶頂期の到来を感じたものだ。

ある授業で例によって滔々と朗読していると、あるところで生徒がこほんと咳をした。教室の風が淀むのを感じた。時計の秒針がより大きく聞こえ始めた。顔を上げると、先生を含む全員が私を見ていた。間違えましたかと言うと、前の行からもう一度読み直してみろとのたまう。再度読み始めた私に押し寄せる爆笑の嵐。「手話」を「てわ」と読み間違え…否、そう思っていたのである。

それ以来、簡単な言葉でも辞書で読み方を確認する習慣が身についたのだから、電話の例とは性質を異にするとは言え、私の高校時代の思い出トップ3を文章にまとめるとすれば入賞間違いなしの出来事である。生徒たちにはもっと落ち着いて物事に臨めとえらそうに言っていた割りにはその程度の体たらくである。

自分で「さとふる」に申し込んでいたのに佐賀と鹿児島に向けてお礼状を書く準備を始めたが、無用となった万年筆と葉書きを片付けながら、年を取ったわけではない、昔っからそうだったのだと独りごちた。

木村達哉

追記
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