先日、文科省のHPに「質の高い教師の確保を」といくつもいくつも書かれてあるページがあって唖然とした。教育再生会議という命名にも驚いたが(再生は死者に対して用いる言葉)、質の高い教師の確保をと文科省が繰り返し書いているのを現役の公立学校の先生方が目にすれば、なかには「自分たちは質が高くないってことか」と思う人もいるだろう。
そのことをtweetしたら、私のTwitterにしては珍しく54000人もの方々の目に届き、128人の方々からリツイートをいただいた(FacebookがシェアでTwitterがリツイートという言葉の使い分けをいまだに間違える)。怒り心頭で文科省への毒を吐くコメントも多数の方々が書き込まれた。文科省としては「いい方に教職を選んでいただくために」と言いたかったのであろうが、言葉の使い方を間違えるとこうなるという好例だろう。
言葉の使い方は難しい。例えば、teacherにあたる言葉に「教師」「教員」「先生」などがある。私は意識して使い分けているけれども(自分で「私は先生です」なんてこっぱずかしくてとても言えない)、小学校の先生方の場合、児童たちに「先生は」と話しかけることもあろう。言葉をどう選ぶかを意識することはとても大切である。
文科省のHPの場合、考え方は人によって異なるのであろうが、別に文科省は教員より立場が上というわけではない。文科省は市役所等と同じであくまでも公僕であり、教育現場で働いている教員よりエライなんてことはないのである。1950年代から政府の後押しで文科省(当時は文部省)の立場が強くなったけれども、なんだか勘違いをした官僚たちのせいで教員の志願者が激減しているのだとすれば皮肉なものだ。
いまこそ文科省はもう少し言葉を選ぶべきだと私は考える。教員は機械ではないのだ。少なくとも私が担当者であれば、「質の高い」という言葉は使わないだろうし、「教師」ではなく「先生方」を使う。こういう文言を見るにつけても、文科省の上から目線を感じて実に嫌な気持ちになるのである。
質の高い教師の確保をという言葉遣いでは、いい方が教職を目指そうかなと思うことはほとんどないように思われる。文科省こそ質の高い官僚の確保および養成をしなければ、日本の教育に未来はない。
木村達哉
追記
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