10月22日。到着した翌朝、通りをものすごいヒトたちと、喧嘩でもしているのかと思うほどのクラクションで何ごとかとバルコニーに出る。プライドパレードだった。こんなに大規模なものにはなかなかお目にかかれないと思って部屋を飛び出した。私もほんの数十分だけれども参加させてもらった。参加者のひとりから色鮮やかなうちわをいただいた。
欧米諸国をはじめとする世界の主要各国で、セクシュアル・マイノリティのプライドパレードイベントが毎年開催されているのはご存じのとおり。ニューヨークなどのように数百万規模の巨大パレードもある。このたび経験したものも、朝5時頃から昼食時間を過ぎても続いていた。
小学4年生の頃、遠藤周作先生の『黒ん坊』を読み耽った。今では絶版になっているその傑作は江戸城にいたと言われる黒人にまつわるエピソードを小説化したものである。小学生の私は、クンタキンテの影響を受けたからかどうかはわからないが、その黒人が受ける不当な差別に憤っていた。そして差別主義者から彼を守ろうとするお姫様を心から応援しつつページを繰った。
私が生まれ育ったのは日本水平社発祥の奈良県である。差別対象となっている地域に住んでいる友人も少なくはなかった。彼らが不当な差別を受けているのは両親から聞いていたけれども、寝た子を起こすな論も闊歩していた時代で、それについて論じる大人は少数派だった。我々子どもたちは気にせず一緒に走りまわっていた。
昨今ではLGBTQ+の人たちについての差別が喧しい。男女差別にしても人種差別にしても出自による差別にしても性的指向による差別も、なんと馬鹿馬鹿しいことだろうと思う。ヒトは等しく幸せに生きていかねばならないのである。自分の力ではどうしようもないことで不当な扱いを受けて泣いているような人たちがいる集団や社会が長続きするわけがない。
たかが数十年しか生きられない短い人生なのに、お互いを尊重しながら幸せに生きて死なねばならないのに、他者に寄り添えない差別主義者のレッテルを貼られるほど恥知らずでヒトとして情けないことはない。
我々はみな違うのである。違っていいのである。違わねばならないのである。だからこそ社会が成り立っていくのである。誰が多数派で誰が少数派だといった議論もナンセンスで、ある要素では多数派であるヒトでも別の要素では少数派に属するものなのだ。自分とは違うヒトと出会ったらそのDefferenceを楽しみながら、笑顔で生きるのがいいのである。
戦争と差別のない世界を。
木村達哉
追記
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