10月24日。動物園、水族館、植物園に出かけていった。海外に行くと私にとって豪華三点セットである。アメリカにしてもイギリスにしても、行かれた方はご存じかと思うが、動物園は日本に比べるとかなりナチュラルで、したがって動物たちを見る機会はかなり少ない。
ほとんどの動物たちは夜行性であり、昼間はどこかに隠れているからである。「ダーウィンが来た」のようなことはレアケースなのである。したがって今回も象やキリンといった、客商売をよく理解している動物たち以外にはお目にかかれず、TigerやLionと書かれたボードを見に行ったようなものだ。
それに比べると水族館と植物園は違う。なにしろ目の前に魚たちや植物たちがいてくれるのである。説明書きも丁寧に作られている。読みながら静かに見て歩いた。平日ということもあってどちらも客が少なく、考え事をしながら歩くにはもってこいであった。
植物園はあるバス停からチャイナタウンを通過して歩いていかねばならなかった。チャイナタウンに足を踏み入れる。漢字と独特の空気が私を包み込んだ。市場を少し冷やかしてみたが、アメリカ人が通うスーパーなどとはまったく違うアジアの食材が並んでいた。価格はほとんど違わなかったけれど。
もう少しで植物園というところで、路上に何人かが倒れていた。日本では大阪市のある地区に行くとたまに見られる光景ではあるが、そうでなければなかなか無い景色である。小柄な女性が倒れていた。生きているのか死んでいるのかもわからない。微動だにしない。くの字になって倒れていた。
少し歩くと路上の右側に太った男性が、左側ではお年寄りが、寝ているというよりむしろ倒れていた。周囲には何人もの人々がいたけれども、誰も声をかけない。なにも無いかのように通り過ぎていく。この風景は日本ではお目にかかれない。当然ながらカメラを向けることはできなかった。
路上生活者であれば近くにテントなり段ボールで作られた簡易な住居なりがあるはずだが、そういったものはなかった。子どもたちも倒れている人たちの近くで当たり前のように遊んでいた。アメリカ社会の影を見たような気がして通り過ぎた。彼らは生きていたのだろうか。定かではない。
日本では、街中に倒れているヒトがいたらきっと119なり110なりに通報するだろう。それはしかし、そういったことが異常だからである。日常のありふれた風景の一部であれば、あなたは通報するだろうか。路上に倒れている人たちを目にする毎日であれば。
日本はそれなりに、つまりご飯を食べられる程度には豊かである。十代の子どもたちが十万円以上するスマホ片手に歩いている。したがって、お金が比較的ある国なのだろう。しかし、増税や社保料増加および昨今の円安による物価高で大人たちは以前より経済的に不自由になっている。物価高や人口減少で店舗は1つずつ消えていく。30年間、給与は下がり続けている。SNSでは政治家への怒りが渦巻いている。
が、しかし果たしてそうか。日本を今の日本社会にしたのは政治家だけの責任ではない。政治家は国民が選んだ代表選手に過ぎない。多数の日本人が投票で、あるいは投票棄権という手段を使って彼らを選び、然るべき民主的手続きを経て、今の社会を日本人全体で作り上げてきたのである。
冷静に考えると、政治家に文句を言うのは凡そ間違いであると考える。今の日本を変えねばならないと考えるのであれば、投票活動を見直さねばならない。今の日本に満足している人たちが多いから、保守的な投票活動になるのである。与党を変えられては困る人たちが多いから変わらないのである。
倒れている人たちはいない。子どもたちが十万円以上するスマホを操作する。年に1回は家族旅行ができる。腹が減ったら外食ができる。教育費も頑張れば支払える。ただし、給与は海外に比べると極めて低い。物価は上がり続ける。年金には期待できない。与党政治家だけは潤う。
この日本を我々は一生懸命にみんなで作ってきたのだ。植物園を歩きながらそんなことを考えていた。このままではまずいと思う人が多くなれば、投票活動は変化するのだろうか。それとも変化を嫌う国民性ゆえに、熱い鍋から飛び出すことができないゆでガエルになって死んでいくのだろうか。
木村達哉
追記
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