BLOG / ブログ /

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 感受性

感受性

2024.05.06(月) 08:00

5月6日。今日でGWは終わり。思えば大学時代は毎日がゴールデンウィークみたいなものだった。ギターを弾き、部屋では本ばかり読んでいた。理系の学生たちからは、文学部英文学科の学問はクソの役にも立たないもので、「あそぶんがくぶ、どうでもええぶんがっか」などと揶揄されてはいたけれど。

「なにかいいことないかなぁ」は「ヒマだなぁ」と同じ意味であるというのは大人になればわかる。「つまらないなぁ」は「僕はつまらない人間だなぁ」と同じ意味であることも。授業がつまらないと思うのは、確かに話し方が下手な先生方もおられるだろうが、学ぶ側の感受性の弱さによるところが大きい。つまらないのは君のほうだと教員としては言いたい。

感受性のアンテナが不感症であるのは、おそらく脳を鍛えてこなかったからだろう。多くの本を読んで、ひとの人生を、そして自分の人生を、考えてこなかったからだろう。どうやって生きればよいのかわからないと生まれてから17年も18年も過ぎて言い始めるのは思考停止の極みである。今まで何をしてきたのだと言うことになる。

文学が「どうでもええぶんがっか」と揶揄される存在であるのは昨今のことではないにしても、最近はとにかく酷い。書店がお勧めの本をSNSなどに挙げておられるが、小説や詩集は含まれていない。あまりにも本が売れないものだから、出版社は大して売れてもいないのに「累計十万部」などと帯に嘘を書いて読者にお前も買えと迫ったり、書店側はなんとか売れそうな本を薦めるのである。

私は文学が子どもの頃から好きで、遠藤先生や向田先生、夏目先生や浅田先生から人生を教わった。逆に「●●の勉強法」や「▽▲の活用法」などのハウツー本からは何も得るものなどなかった。学校改革だの話し方だのといったハウツー本も、極めて刹那的で質の悪い「方法」しか教えてはくれない。

他の人の人生から勝手に学ぶのである。学べない人は感受性が低いので、そういう人がなにを読んでも脳を鍛えてこなかったのだからどうしようもない。遅きに失したと悔やんでも遅いだろうが、せめて今からでも『雪国』だの『放浪記』だのといった名作と呼ばれる本ぐらいは生きているうちに読んで、他の人たちの考え方や生き方から学ぶべきだろう。

灘校の元同僚である井上志音君が、高校で読む小説が『羅生門』だけでいいのかという問いを発信しているが、いいわけがない。タイパだのコスパだのいうナンセンスな言葉が跋扈しているが、近道のように思える「楽な道」が実は一番の遠回りであることなど誰でも知っているのに、多くの人たちがその道を歩こうとするのは残念である。

木村達哉

追記
メールマガジン「KIMUTATSU JOURNAL」を火木土の週3通無料配信しています。読みたいという方はこちらからご登録ください。英語勉強法について、成績向上のメソッドについて、いろいろと書いています。家庭や学校、会社での会話や、学校や塾の先生方は授業での余談にお使いください。