5月13日。母のことばかり書いていると父が化けて出るかもしれないので書くが、今日は亡父の誕生日である。こういうときはネットが便利で、昭和12年生まれの人は今日で何歳になったのかと検索すると87歳だと教えてくれた。まだ生きていてもおかしくはない年齢である。
明日香村の祖父が104歳まで生きたことを思えば、もっと節制しておけばよかったのにとは思うが、毎日酒を飲み、毎日煙草を吸っていては長生きできるわけもない。71歳で生涯の幕を下ろした。
私が30歳の頃、彼は経営していた小さい会社を畳み、借金とりに追われる日々を送った。彼の負債額は1億9000万円。そのうち私の取り分(連帯保証していた額)が6000万円。難儀な生活ではあったが、死んでくると言って電話を切った父が結局は死にきれずに出てきたのは、今となればよかった。街金融の強面から追われることにはなったが、自死されるよりは余程いい。
悪いことばかりではなかった。小学生のとき、初めてゴルフの練習場に連れていってもらった。まったく飛ばない小4生がボールの無駄遣いをするのにも、彼は何も言わなかった。教えてくれと私が言うまでは。コツを教えてもらった私が7番アイアンで130ヤードほど飛ばしたとき、初めて「今のを繰り返せ」と言って、またそこからは教えてくれなくなった。そういう父だった。
同じく小4のとき、誕生日に「少年少女文学全集」を買ってくれとせがんだ。そんなもの本当に読むのかと何度も聞かれたが、どうしても欲しいと私にしては珍しく何度も訴えた。家族4人で二部屋しかない自宅のどこに置くのかという問題を私が考えることはなかった。彼は置き場所以上に家計を考えていたはずである。無駄遣いからはほど遠い家族だった。
50冊から成るハードカバーの小説集が届いたとき、家具屋で本棚を買ってきた父はどこか嬉しそうに見えた。私はあまりにも嬉しくて泣いていた。そして言われたわけでもないのに、『十五少年漂流記』を読んでは感想文を書き、『小公子』を読んでは感想文を書いて、両親に提出していた。父と母は大好きな菊正宗の2級酒を飲みながら読んでいた。
今日はそんな父の誕生日。思えば、今の私の素地は、ゴルフも執筆も両親が作ってくれたのだな。父と母が生きている間はそんなことにも気づかなかったけれども、会えなくなり、子どもの頃を思い出すに両親が私をこつこつと作っていってくれたことがわかる。そんな父に感謝し、献杯しよう。
木村達哉
追記
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