11月12日。12月に福岡で、1月に山形で、それぞれ毎年恒例の勉強会を開催することになった。飲んでばかりではよくないので忘年会や新年会のついでに勉強会をしようなどと不埒なことを考えているわけでは決してない。あくまでも勉強会がメインなのだ。結果として宴会がメインのようになるが、それは参加者が悪い。
両方の勉強会の演題を求められたので「哲学と教養」とした。哲学は高1の頃から現在にいたるまで、自分でも呆れるぐらいはまりにはまっているのだけれど、論理的思考やリテラシー獲得の役に立つ。哲学など役に立たないと言うのは無知なる阿呆の戯言である。そんなことを言っているからSNSに騙されるのだ。
哲学といっても実存主義やポストモダンを勉強しようと言っているのではない。論理的思考力は大切ですよと学校では教えるのに、肝心の思考法までは教えないことが多い。考え方がわからないのに考えろというのもやくざな話である。弁証法、認識論、存在論などについて話を聞いてもらったあとは、いつもどおりにみんなでわいわい盛り上がってもらう。
最近は哲学対話なるものが流行しているらしい。それ系の本を読んでみたのだけれど、なかなか面白い。学校という場所は生徒たちの主体性を求めるわりに、生徒たちがあまりにも主体性を持つことを嫌う。その点で言えば、哲学対話にもっとも不向きな場所こそ学校なのかもしれない。灘校のような自由なところは別としても。
哲学対話の基本姿勢は「忖度しない」である。自由に意見を求めるし、自由に相手に質問をする。相手を攻撃することはご法度だけれど、これはどうなのかなと思ったことは質問する。相手が目上であっても構わない。こんなことを聞くと失礼じゃないかと思うのは哲学ではない。常に自由なのである。
学校の先生方はもしかしたら哲学が苦手かもしれないけれど、でもだからこそ福岡と山形の勉強会は「哲学」を選んだ。この勉強会のあと、思考法が変わったと言ってくださる参加者がいることを願っている。
木村達哉
追記
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