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九州、山形、広島で「哲学と教養」講座

2024.12.07(土) 08:00

12月7日。月末に福岡で、年明け1月に山形で、2月に広島で、それぞれ勉強会で登壇することになった。いずれも「哲学と教養」という演題にしてもらった。哲学というとなんだか縁遠いものだと考える向きもあるだろうが、おおよそ全ての人が哲学からさほど遠くない思考を日々繰り返している。生まれてから死ぬまで哲学である。

もちろん実存主義だのポストモダンだのを掘り下げればもしかしたらつまらないなと思う人たちもたくさんいるだろう。堅苦しい雰囲気、眉間にしわを寄せる人々、難解な語彙…そうしたイメージが哲学という言葉にはついてまわっているように思う。決してそういうわけではないのだけれど。

哲学は常に問いから始まる。問いといったって「なにを考えてるねん?」という問いは問いではない。言い換えれば「もっと頭を使え」とか、もっとシンプルに表現するならば「バカヤロー」である。すでに解が出ているのであって、それを問いの形式にしているだけなのだ。こういうのは問いとは呼ばない。

かといって、あまりにも解を導き出すには抽象概念すぎるもの、たとえば「幸せとはなにか」とか「問いとはそもそもなにか」といったようなものの場合、これまた多くの人たちからすれば「これについて今から論じるのか…」とがっかりすることになるだろう。そういうのは専門家、つまり哲学者に任せておけばいいのだ。

ある時期から論理的思考という言葉が教育業界を歩き始めた。または、職員室にいると「論理的に考えると」や「あの生徒は論理的思考力に欠ける」などといった言葉が使われるようになった。哲学である。ところがその「論理」をどれだけ深く掘り下げるのか、どれだけうがった見方をするかという点においては論じられず、したがって「論理」が軽い。

論理的に考えると学校ってさぁと言うからには学校の存在を理解し、共有しておかねばならないのだけれど、それでは学校はなんのためにあるのか、世間からどう認識されているのか、学校の範疇はどういうものか、塾は学校とは呼べないのか、検定教科書を使わない私立中高と塾予備校の差異は制度上以外に存在するのかなどについては、論理的に考えない。

哲学って身近で面白いんだなと思っていただければ幸甚である。九州、山形、広島の皆さん、どうぞよろしくお願いします。九州は12/22、山形は1/11、広島は2/23に開催される。

木村達哉

追記
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